カミハタ養魚グループは人と生き物が共に暮らす環境をトータルに提案します

KAMIHATA探検隊

カミハタ探検隊 in INDONESIA 「まだ見ぬ部族が潜む魔境(マンベラモ)を行く」
text & photo/神畑重三 協力/神畑養魚(株)

+++ イリアン・ジャヤ/2 Vol.1 +++

「まだ見ぬ部族が潜む魔境(マンボラモ)を行く」

日本から「遠くて、そして遠い国」イリアンジャヤの魔境に日本人で初めて訪れる。いったいどんな冒険と出会いが待ち受けているのだろうか・・・。


なんびとも入れない厳しい入境規制

ドイツ人探検家ハイコ・ブレハから「もう一度ニューギニア島の探検を計画しているけれど、いっしょに行かないか」と、再度の誘いを受けた。目的地はイリアン・ジャヤのマンボラモ水系と高地のジャモア湖の二ヵ所だという。

私はこの誘いを二つ返事で受け、前回同様、ターザンの異名を持つ水上を同行させることにした。ハイコ側はイタリア人女性のパオラが参加することになった。パオラはイタリアのミラノの大きな熱帯魚の問屋の娘さんで、私とは3、4年前からの顔見知りである。ニューギニア入りする前に、イリアン・ジャヤについてハイコから3つのアドバイスが披露された。
1.万事が時間どおりにならないと思え。
2.すべての物価が他のインドネシアの島々に比べて2倍から3倍すると思え。
3.すべての計画は変更されるためにあると思え。

驚いたことに、ハイコもパオラも時計を持っていない。いや、持っていても意味がないので、あえて持たないといったほうが正しいだろう。そのくせ、パオラが私に「いま何時?」としょちゅう聞いてくるのがちょっと矛盾している。

イリアン・ジャヤはすべての面で、「日本から遠くて、そして遠い国」である。最近は政治問題の厳しい制約があって、内陸部に入ることがさらに難しくなっている。マンボラモ川と湿地帯の水系は、全長が約300km、幅は平均約30kmで、水源はニューギニア北西部の標高4500mのバンレグス山脈とジャヤウィ・ジャヤ山脈から流れてくる水である。

マンボラモ水系には1924年に1人のオランダ人探検家が魚と植物の調査の目的に入ったきりで、それ以降、外国人は誰ひとり訪れておらず、そのときの調査資料として、数種のレインボーのホルマリン漬けの標本と数枚の白黒写真が残されているだけである。その後、ハイコがマンボラモの別の水系に入っているので、マンボラモでは今回の探検が史上3回目になるが、日本人ではわれわれが初めて訪れることになる。

外国人の入境禁止地区なので警備は厳しい

■外国人の入境禁止地区なので警備は厳しい

天地創造の神が造ったのかと思われるほど美しい景観。

■天地創造の神が造ったのかと思われるほど美しい景観。向こうの湖と手前の湖は水質が異なるということは、それぞれの湖に変わった魚が生息する可能性が高い

なぜ、この地区に入るのがそんなに難しいかというと、第一に治安上の問題から外国人を奥地に入れないという国家の基本方針があって、この地域に入境するためのパーミッション(許可)が容易に取得できないからである。第2にヘリでしか行けない場所なのに、この島に保有されているヘリは数機しかない。

ニューギニア島はちょうど恐竜のような形をしていて、その首根っこ近くの高地に直径10kmほどのジャモア湖がある。この湖の標高は約1500mで、ここには珍しい淡水ザメ(ブル・シャーク)が生息しているという。この湖はアラフラ海沿から距離にして約130kmほど内陸に入ったところにあり、太古の時代、海底の隆起によって造られた湖と考えられているが、気の遠くなるような長い歳月を経て、そこに住んでいたサメが完全に淡水化して、今日まで生息を続けているという。

1950年代にオランダの飛行機がこの湖に不時着したことがあるが、そのおり湖に群泳するサメの姿を見たパイロットによって撮影された写真が残っている。ハイコによると、このサメはやや小型だが、それでも全長3mはあるだろうとのことだ。体色はグレイと白のツートンカラーで、非常に獰猛で、人を攻撃するらしい。しかしながら、この50年近く、この湖を訪れた者は誰もいないので、詳しいことはわからないとのことだ。また、この湖は一般の航路からはずれており、ほとんどのパイロットがその湖上すら飛んだことがないという秘境中の秘境である。

有史以来人間が入ったことのないジャングル。ヘリを水面近くまで降下させてとった光景

■有史以来人間が入ったことのないというジャングル。ヘリを水面近くまで降下させてとった光景

ニューギニアに入る前に許可を貰わなければならないが、ハイコは「ドイツでインドネシアの大使館を通して環境庁長官の許可を取っているので心配ない」と楽観している。しかし、これまでの国での許可証にはさんざん難儀させられてきた私たちには、事がそう簡単に運ぶとは思えなかった。

もし出発が一日遅れていたら‥‥‥

ジャカルタ空港には私の友人ポリーと我が社と取引のあるビバジャヤ社のメリーさんが迎えに出ていた。ひとまずホテルでチェックインを済ませ、すぐに環境庁の長官に面会に行った。長官はあいにく不在だったが、次官があってくれ、「約束どおり許可書は出すが、マンボラモに入るには、別に治安局(CIA)と軍警の2つの許可も必要で、どんなに急いでも2,3日はかかるだろう」と説明された。

ハイコが「約束が違う」とぶつくさ言いながら、途方に暮れている。とりあえず環境局の役人を伴ってポリーと治安局に交渉におもむいてもらう一方、軍警許可証はイトウチュー・ジャカルタ 支店のスタッフに依頼した。 軍警許可証を申請するには、事前に日本でビジネス・ビザを取得しておくことが原則だが、今回はハイコが「そんなものはいらない」と言うので、何も用意してこなかったのだ。強引な話しだが、無理を承知で頼み込み、ビジネス・ビザの発行を夕方までに間に合わせてくれるよう約束を取りつけ、念願の秘境に入る手配を整えた。

飛行機は早朝5時の出発だから、遅くとも3時半にはホテルを出発しなければならない。いよいよ強行軍の旅の第一日目が始まった。パオラ嬢が「こんな早い飛行機の出発時間なんて、世界中どこを探したってないわ」とぼやいている。一日じゅうあくびばかりして、いつも眠そうな顔の彼女には3時起きはとてもつらそうだ。

ところが、翌朝3時に迎えに来てくれるはずのジョンが4時近くになっても姿を見せない。これ以上待つと飛行機に乗り遅れてしまう。仕方なくタクシーに分乗して空港に急いだ。ガルーダ航空は定時に発着しないことで有名だが、こんなときに限って運悪く定時に出発するという。厄介なことに、サメ捕獲用の用具一式は別便で送らなければならないので、ハイコがカーゴ(貨物取り扱い)に荷物を出す役を引き受け、彼とは搭乗ゲートで合流することにした。

われわれの到着が定刻をオーバーしているので、係員が「早く、早く」とせき立てる。「もう1人乗るから」と頼むが、もう機長も乗り込んでいるので、これ以上は待てないとはねつけられる。ハイコ1人を残して出発することもできず、やきもきしていると、搭乗機のエンジンが轟々と唸りはじめ、私の気持ちをいっそういら立たせる。

待たせるのもあと2、3分が限界かと思われたとき、パオラが気転をきかせて「できるだけゆっくり歩きましょう。搭乗のタラップを一段ずつ止まりながら上がりましょう」と必死の顔つきで訴える。なんてことはない、国会のお偉方がよくおやりになる例の牛歩戦術だが、それすらもはや限界かとあきらめかけていたころ、ハイコがゆうゆうと搭乗ゲートに姿を現した。「やれやれ」とほっとしたが、ハイコは「カミハータさん、日本のG7のニュースが出ている新聞をあなたのために買ってきたよ」とあっけらかんとしている。いつもどおりのハイコ・ペースとはいうものの、いらいらの連続で胃が痛くなってしまった。

ところが、このわずか1、2分の差がわれわれの生死を分ける運命の分岐点になった。というのは、翌日のこの時刻の同便がソロン空港で着陸に失敗し、乗客47名の大半が死亡するという事故を起こしたからだ。悪運が強いのか、幸いにもわれわれは九死に一生を得たことになる。

ジャヤプラまでは約10時間余りの長いフライトである。2年ぶりに訪れたセンタニ空港はビルを建築中で、ニューギニアにも近代化の波が押し寄せていることを感じさせた。古き良きニューギニアが失われていくのは残念だが、住民には経済発展こそが最大の願望であろう。

空港には以前に宿泊したセマル・ホテルの若主人であるオカマのジョンがたまたま居合わせ、われわれの姿を見るなり、奇声を発して嬉しそうに抱きついてきた。どこであれ久しぶりの知人に会うと気持ちが高揚するが、とくにニューギニアのような僻地での知人との遭遇はなににもまして心強い。2年前は壁が穴だらけでおもちゃのような扇風機が1台あるだけのホテルだったが今回はクーラーが付いていた。

マンベラモ水系の奥地での網引き。有史以来おそらく何人もはいったことがないと思われる
■マンベラモ水系の奥地での網引き。有史以来おそらく何人もはいったことがないと思われる

TOP